NAPALM DEATH
trapped in a scene UK HARDCORE 1985-1989
※IAN GLASPER著-trapped in a scene UK HARDCORE 1985-1989-より転載。

ニック:パンクを聴き始めたのは78年からで、まだ10歳だった。パンクを聴き始める前は音楽にはあまり興味がなく、どちらかと言うと映画にハマっていたんだ。その当時はパンクが流行っていて、BUZZCOCKSやSTRANGLERSなんかがテレビでも流れていたから避けて通ることはできなかったんだ。まさにこれだ!って思ったね。それ以来他のモノを全て捨ててパンクにのめりこんだんだ。THE PACKのようなマイナーなバンドも直ぐに聴くようになって、最終的にはCRASSに辿り着いた。CRASSに出会った事で他の名だたるバンドには興味が無くなっていったよ。つってもそこまで詳しくなかったんだけどね。俺が初めて観たのはバーミンガムのODEONでの"MASHINE GUN ETIQUETTE"ツアー中のDAMNEDだった。しかもまだ10歳の時さ!しかもラッキーだったのは多くのバンドがバーミンガムのDigbeth Civic Hallで演っていて未成年でも入れたんだ。そこで1980年に初めてCRASSを見たんだ。

自分達で音楽をやり始めたのは隣に住んでいたマイルズ'RAT'ラトリッジと一緒に"ANTI-SOCIAL"ってファンジンを作って俺がギターでマイルズがドラムのCIVIL DEFENCESってバンドで2ピースだった。初めてのライブをやったのは81年の4月で、HUMAN CABBAGESとの前座だった。でも翌月にはサイモン・オッケンハイネムをギターで入れてバンド名をNAPALM DEATHに変えたのさ。俺はベース/ヴォーカルに転向してこれがオリジナルのNAPALM DEATHのラインナップとなった。素人同然のバンドだったから一個のリフだけの曲が沢山あったよ。CRASSを中心にPOISON GIRLSやFLUX OF PINK INDIANSなんかのアナーコ・バンドが基本だったから、RIOT CITYやNO FUTUREのバンドには興味がなかったね。更にファンジンを読み漁ってMOBやSINYX、THE SNAILSなんかのマイナーなバンドを掘り下げていったりもした。パンクという面よりも、DIYかつ政治的な側面を重要視してたんだ。まぁCRASSが全てだったけど、他のバンドも勿論ちゃんとチェックしてたんだよ。GBHを観てドハマりしたしね。今でも"LEATHER,BRISTLES,STUDS AND ACNE"は愛聴盤さ!奴等は何に影響受けたのかが分からないってのがいいんだよ。例えばDAMNEDはMC5っぽい音を出していたけど、GBHもDISCHARGEもそれまでの音楽とは似ても似つかない物だったんだ。

その後ベースにロボが加入し、ギターもダリルに変わって俺は立ちヴォーカルになり9曲入りのデモを作った。ダリルをギターにした理由は革ジャンにDAMNEDをペイントしていて、かつディストーション・ボックスを持ってたからだ(笑)このメンバーで一回だけGIGをやって今度は15曲入りのデモを作ったんだ。自分達のレーベルCONTAMINATION名義でね。でOBITUARYファンジンのミック・スローターに協力して貰って売ったんだ。82年の終わりになって、ロボがギターに転向して新たにフィンがベースに加わった。そして83年の4月1日にまた新たなデモを録った。このデモの曲は『BULLSHIT DETECTOR VOLUME.3』に収録されたんだよ。この頃はオランダのTHE EXやRONDOSにドハマりしてたんで、強烈にアナーコでポリティカルな詞になった。このメンツで何回かGIGをやってそのうちの一つは、ノッティンガムでのSUBHUMANS、CHAOS UK、DISORDER、ANTISECT、AMEBIXとのGIGだった。緊張を隠すためにしこたま飲んで失敗し、ステージを降りた後ドラッグをキメて殴り合いになって終いにはトレント川に投げこまれたよ。これ13歳の時ね(笑)でもそこには手紙でやりとりしていた人間も沢山いたんだ。そうディグやカルヴとかね。

その頃、海外のスラッシュがテープ・トレードの世界で浸透し始めた時期でもあった。初期のFLIPSIDEファンジンにはフィンランドの記事が載っていてKAAOSやRATTUSそしてアメリカのMDCなんかが紹介されていた。とは言うものの、CONFLICTやDIRTなどの第三世代のアナーコバンドとは関わりがなかったからこっちにもどんどん興味が沸いていた時期でもあった。でも海外のスラッシュの方が断然刺激的だったし、全部好きになりたかった。でもこればっかりは無理な話さ。この時期に手に入れたストーク・オン・トレントのASYLUMのデモをは今でもお気に入りのスラッシュ音源の一つだよ。しばらくしてロンドンのRECESSION CLUBでのGIG後バンドは一時的に活動停止となった。

NAPALM DEATHが活動停止していた年に学校を卒業し、バーミンガムでBIRTHDAYやKILLING JOKEなんかのブート・カセットを売っている店でジャスティン・ブロードリックと出会った。CRASSからDISCHARGEまで似た趣味も持った人間だったので直ぐに仲良くなって、一緒にインダストリアル・ミュージックをやりはじめたんだ。

84年の終わりになると、MERMAIDでハードコア/パンクのショウをダズ・ラッセルがブッキングを始めた事でイギリスをツアーする時には必ず使われる場所となり、いろんな人間が各地から集まるようになった。そして85年の7月にジャスティンがギターとなり再びNAPALM DEATHが始動する事となった。復活後の最初のGIGはテルフォードでCHUMBAWANBAとBLYTH POWERと、フラワーズではDUSBINと一日で二回GIGをやったのさ。そこにはその後DOOMやENTで活動する事になるまだ13歳だったピートの姿もあったね。9月になるとMERMAIDでほぼ毎週のようにGIGを演り、その月の終わりには新たにピート・シャウをベースに迎え『HATRED SURGE』デモをバーミンガムのFLICKスタジオで録音するも、11月の終わりにはピートは脱退。俺は再びベースを弾く事になるも、一ヶ月後にはノッティンガムにてディグの企画によるスラッシュ・フェスティバルに参加する事が控えていた。この数ヶ月でHERESYやCONCRETE SOX、EXTREME NOISE TERROR、DIRGEなどとGIGをこなすことでスラッシュ・バンドとしての地位を確立したかに思えたんだ。そして若気の至りだったとは故、オリジナル・メンバーであるマイルズにバンドを解散するからと伝え、彼なしで再びNAPALM DEATHを勝手に始めたんだ。要は彼をクビにする為に嘘をついたのさ。あれは本当に酷かったと今でも後悔しているよ。でも当時は自分達の出したい音を優先してしまったんだ。マイルズは最初は納得しなかったけど、ANOREXIAに加入したり、TOTAL CANNIBALISMファンジンをやっていたアンディー・ナンと一緒にABERRATIONを始めたりした。でもそのバンドも87年末には活動を停止してしまい、今度は初期のNAPALM DEATHのメンバーだったフィンとグラハムと再会し、THE MOBみたいなWITCH HUNTというバンドを始めたんだ。デモを作ったりしたけど、結局バンドは行方知れずに。デモは言うまでのもないけどMOBのセカンド・アルバムと瓜二つだったね。そしてマイルズの代わりとなるのがカナダのNEOSからバンド名を取ったサイコビリーバンドMARTIAN BRAIN SQUEEZEや、後にマイルズが参加したANOREXIAの初代ドラムだったミック・ハリスだった。

ミック:俺がNAPALM DEATHを知ったのは85年の8月か9月だった。彼等のサウンドはKILLING JOKEにDISORDERやCHAOS UKをミックスしたもので、そこには間違いなくAMEBIXも入っていたんだ。俺はジャスティンと仲良くなって彼からアンダーグラウンドのスラッシュ・バンドやデス・メタルを教えて貰い、彼の取り巻きなんかとも一緒にギグに行くようになったんだ。85年の11月頃にジャスティンがマイルズがバンドの方向性と合わないと話してきたんだ。そんでANOREXIAのスタジオ練習に来て全速力で叩いてみてよと言われたから、俺は叩いたんだ。そしたらNAPALM DEATHに入らないかと言われたんだよ。俺は兎に角速さを求めていた。SIEGEより速く、DEEP WOUNDよりも速くね。HERESYはこの時点で先を行っていたけど、俺は更にその上を目指したかったんだ。大した腕は無かったけど、速く叩く事に全てを賭けていたのさ。ジャスティンもニックもそれを望んでいたしね。思い出せば俺の実家で何度も練習したよ。ジャスティンはアンプも持ってなかったから家のコンポを使ったりして!最初のGIGは86年の一月の中頃で、INSTIGATORSとAMEBIXと一緒にやった。最高だったね。ほどんどの人間達が俺達がやっている事にどう反応していいのかポカンとしてたよ。

ニック:嫌な時期だったよ本当に。俺達は嫌われているのと同時に笑い物だった。俺が好きだったバンドの殆どが、俺達の事を嫌っていたんだ。まだ若かったからそれが悔しくてね。でもそう思われていたからこそ、何糞ってなれたんだと思うよ。俺がバンドに求めていたのは地位でも金でもなく、自分自身を表現したいだけだったんだ。バンドをやり始めた頃は、ステージで酔っぱらおうが、全裸になってケツの穴にスティックを突っ込もうが、髪の毛を燃やそうが気にもしなかった。だって当時はそれが最高だと思ってたんだから。でも練習を重ね、HERESYやCONCRETE SOXやVARUKERSやSACRILEGEらとステージを共にした事で演奏がどんどんタイトになっていった。この変化に気付いたのが、86年の3月にMERMAIDで行われたAMEBIX、HERESY、POTENTIAL THREAT、DEVIATED INSTINCT、SKUM DRIBBLURZZZが出演したスラッシュ・フェスティバルの時だった。俺達が演奏したら客が狂ったように暴れ出したんだ!これまでこんな経験なかったからね。このライブを録音したのを後で聴いてみたら、最初の数曲は何の反応もなく拍手だけで終わったのが、笑い声に変わりしまいには叫び声に変わったんだ!

ミック:86年の3月にはFLICKスタジオで俺のレコーディング・デビューとなった『From Enslavement To Obliteration』デモを録音した。俺達はCELTIC FROSTの持つロウなパンクっぽさが大好きだった。ジャスティンはSACRILEGEの複雑なリフが好きなのと同様に、CELTIC FROSTのシンプルさと曲の流れが大好きだった。俺をスラッシュの世界に導いてくれたのは勿論ジャスティンで、初めて体験したデス・メタルのレコードはPOSSESSEDで、そこからKREATOR、DESTRUCTION、そしてCELTIC FROST、SLAYERと更にアンダーグラウンドの世界へと導いてくれたんだ。もちろんクロスオーバーなバンドも沢山出てきたけど、クロスオーバーなスラッシュが好きじゃない奴等が多かったのも事実なんだ。音は綺麗過ぎるし、テクニカルだし、パンクっぽい汚さが足りなかったんだよ。だから皆CELTIC FROSTだったのさ!

バンドがどんどん力をつけていくのを見て、MERMAIDでブッキングをしていたダズは、ミッドランド地方でもライブをブッキングするようになって、ドーバーのATAVISTICとのスプリット7インチを出そうと思い、NAPALM DEATHにレコーディングを依頼。バンドは初の公式なレコード・リリースへの期待に胸を膨らませながら、当時はまだ質素な8トラックの設備しかなかったRITCH BITCHスタジオで、その後『SCUM』のA面となる12曲を録音。しかし、ダズにとっては残念なことに、バンドは自分たちの可能性に気付き始めており、マスターテープを簡単には渡さなかったのだった。

ミック:確かに奴はレコーディングの金を出してくれたよ。90ポンドね。でも奴は俺達にGIGで稼いだ金を一度も払わなかったんだ。だからマスター・テープを渡すのだけはやめたのさ。俺達は奴にギャラを要求したことなんか無かったけど、支払うのは当然だったんだよ。だって奴はヘッドライナーに払うギャラの為に俺達を客寄せにしてたんだから。確かに約束を破ってテープを渡さなかったのは問題だけど、同時に俺達を騙していたってのは変わらないからね。だからこのテープは俺達を次のステップへと導いてくれる奴に買って貰う為の旅に出たのさ。パスヘッドがMAXIMUM ROCKNROLLで絶賛してくれたんだけど、奴のPUSMORTもCORすらも興味を示して貰えず1年ほど経ってしまったんだ。

ニック:『SCUM』のリフは俺とジャスティンが考えたもので、CHAOS UKとDISCHARGEのリフを更に速くしたものだった。意図的にリフをパクッたとかじゃなくて、その時聴いていたCELTIC FROSTの遅いリフとSIEGEのスピード感を合わせたりしたんだ。SIEGEは大好きだったけど、俺達の曲はどれもSIEGEではなかった。彼等の持っていたとてつもない猛攻を自分達なりにアレンジしたんだ。"You Suffer"はNAPALM DEATHが世界一短い曲を生み出したと思われがちだけど、あれはWEHRMACHTのデモの中に入っていた"E"を真似したものなんだ。話は変わるけど、この時点でバンドは崩壊への道を歩んでいたじゃないかと思ってたんだよ。このバンドにはとてつもない強烈なキャラの3人がいて、誰も引こうとせず、誰も彼もがリーダーになろうとしていた。そう言えばこんな最悪な事があったんだよ。CONCRETE SOXがリンカーンでギグを企画してくれた時の事。俺達の大好きなバンドが一緒にやりたいと言ってくれるなんて本当に嬉しかったんだ!だってこんな素晴らしいことはないだろ?前乗りでノッティンガムに行って、ジョン・マーチの家に泊めて貰ったんだけど、朝起きたらミックがいなくなってたのさ。どこか店にでも行ったのかなと思って戻って来るのを待ってたんだけど、待てど待てど戻ってこず。仕方なくSOXの連中は俺達なしでリンカーンに行くこととなり、俺達はバーミンガムに戻らざるを得なかった。。。でも金なんかほとんど持ってなかったから、帰る為の金をGIGにでも出てギャラを稼ごうと思いMERMAIDに行ったんだ。そしたらELECTRO HIPPIESがやっていたんだけど、そこにミックがいやがったのさ!!!奴はELECTRO HIPPESがMERMAIDでやるのを知って、自分達のギグよりもそっちを取ったのさ!さらに奴の周りには音楽にしか興味のない取り巻きがいて、文学や映画が好きな俺とはそりがあわなかった。そんな中でだんだんと疎外感を感じてしまった俺はもう一緒にバンドをやる意味を見いだせなくなってしまったんだ。俺はバンドを抜けたいが為に、「俺はベースが下手だから誰か他の奴に変えてくれないか?」とやんわり伝えたものの返ってきた言葉は「いいんじゃない?お前はヴォーカルに専念したいんだよな!」となってしまったんだ。そんでもってジャスティンから新しいベーシトはミックがお遊びでやっていたシェーン・エンバリューがギターでBOLT THROWERのアンディーがドラムだったDROP DEADでベースを弾いていたジム・ホワイトリーに決まったと連絡が来たんだ。

ジム:83年の始めだったかなバーミンガムのピースセンターで買った"Twisted Never"ってZINEの中に、NAPALM DEATHに関する記事を読んだんだ。それはマイルズとニックが自分達で作ったものだったんだけど、もしこれが10代の子供2人が考えたものだと言われても、当時の俺は信じなかったね。だって知的かつ洞察力に長けていて、めちゃくちゃちゃんと書かれていたから、確実に大人の作った物としか思えなかったんだ。その後、『BULLSHIT DETECTOR』に収録されている彼らの曲を聴いだんだけど、ぶっちゃけ音的に好きじゃなかったからスルーしてたよ。その頃の俺はポール・メイの"FINAL CURTAIN ZINE"やミック・スローターの"OBITUARY ZINE"のコンピ・カセットを手に入れて、世界中のハードコアに耳を傾けていた。ロウで速くて攻撃的なサウンドにメロメロさ。だからNAPALM DEATHを実際に観たのも85年だったんだ。そう『HATRED SURGE』の曲を演ってた頃のね。速い曲はまあ良かったけど、ジャステインの下手クソなギターが奏でるKILLING JOKEみたいなメロディーのある曲や、DIRGEみたいな遅い曲は好きになれなかったよ。初めてベースを手に入れたのは86年の7月で、コーベントリーでのGIGに行く途中にあったリサイクルショップで、安っすい左利き用のWESTONEを見つけて買ったんだ。当時は何かしらの形でバンドに入りたかったから、短期間で出来るようになるのはベースが一番簡単だろうと思ってたんだ。それから数週間後にはDROP DEADに参加したんだ。スタジオだけのバンドだったから、大して思い入れもなかったけどね。NAPALM DEATHは『SCUM』のA面を録音した後の9月には、あからさまにバンドに不穏な空気が流れていて、特にニックは現状に幻滅しているように見えたよ。そんな中で、ベースも弾けないし、機材も持っていない事を知っていた上で俺を誘ってきたのさ。俺のスキルの無さでバンドに支障が出るんじゃないかと心配したけど、ディストーションでなんとか誤魔化せたから、こんなのは時間が解決してくれるだろうと願っていたよ!そんでニックがヴォーカルで数回GIGをやって、リーズでSACRILEGEとやったのを最後にニックとジャスティンはバンドを抜けたんだ。その後ジャスティンの代わりにBENEDICTIONやSACRILEGEに加入したフランク・ヒーリーが一時的に入ったけど直ぐに辞め、二人の後任となったのがコヴェントリーのアナーコ・パンクスのリー・ドリアンと、僅か16歳ながら素晴らしいPHOENIX MILITIAファンジンを作り、テープ・トレーダーだったリヴァプールのビル・スティアーだった。

ニック:全ての元凶はミックなんだよ。でも争いごとが苦手な俺は、その度に感情を飲み込んで抑えていたんだ。最後となったリーズでのGIGで、客達が「もっと速く!もっと速く!」と曲が終わる度に叫んでいて、自分達がまるでサーカスをやってるんじゃないのかと思えてしまったんだ。俺達のアイディアには耳を傾けず、ただただ自分達が乗れるジェットコースターにしたいだけなんだと。そんなもんになるのであれば、これはただの仕事だ。俺は自分がやっている好きな事、そうバンドを仕事なんかにしたくなかったんだよ。更にバンドはどんどんどんどんメタルっぽくなっていったしね。つまりREPULSIONなんかに影響を受けるようになっていったんだ。REPULSIONは嫌いじゃないさ、でもこれは自分達の考えじゃなくて、他の奴がやってる事を自分達のバンドで演ってもなんも面白くもなかったんだ。そんな状況下で俺はバンドの練習に向かう中、もう奴等が待っている部屋になんかに入りたくなかった。「二度とあんな所に行くかよ」と思いながらスピリッツを飲み干していたよ。そして練習にも行かず、掛かってくる電話にも出ず一ヶ月が経ち、奴等は俺が辞めたんだと気付いたのさ。何かのドラマみたいに悪い連中達から抜ける為に「そうさ、俺はもう抜けるんだ!」なんて言う勇気はなかったよ。でも俺は信じられないほどホッとしてたんだ。あのグループから抜け出し、奴等から離れられた事がたまらなく嬉しかったんだ。

リー:かつての俺はICONS OF FILTHに入りたくてベースを買ったけど上手く弾けずその計画はボツになり、DOOMのベースが空いていたから挑戦しようかと思っていた中、NAPALM DEATHに入らないかと誘いを受けたんだ。まだ一度もちゃんと練習していない中で、フランク・ヒーリーがギターだったNAPALM DEATHのヴォーカルとしてコヴェントリーのHAND & HEARTでのANTISECTとHERESYの前座としてステージに立ったのさ。コベントリーのABCシネマでやっていたオールナイトのホラー映画上映会で、ニックとマイルズをよく見かけたよ。マジックマッシュルームやLSDをキメて、朝の6時頃までゴアやスプラッター映画を見ていたんだ。NAPALM DEATHは毎週のようにマーメイドやその他の場所で見ていたんだ。俺がが加入するまでに、少なくとも60回はね。当時はシーンがとても小さかったから、大体そこにいる人間の事を覚えてたもんさ。ミックが加入してからの彼らは本当に速くなったんだ。だから土曜の夜になるとよくこんなジョークが飛びかってたよ「先週よりも速くなってるかな?」ってね!そう、彼らはどんどん速くなっていったんだ。ただ、どうやったらこれ以上速くなるんだよ?ってくらい速くなっていたんだ。 かつて俺はPIG DISEASEって連れのジュールズの部屋で騒いでるだけのアナーコ・バンドを学校で組んでいたんだ。WRETCHED、DISORDER、SKUM DRIBBLURZZZやEAT SHITなんかに影響を受けた無政府組合主義であり、自分達の事をARF(Armed Revolutionary Faction)と呼ぶんでいたのさ。マイクもPAもないからねじ回しをマイクに見立てて叫んでるだけのね!NAPALM DEATHの話に戻るけど、最初はニックが抜けてしまったことがかなりショックでがっかりしてたんだ。でもミックからの誘いを受けて、経験がなくたって大好きなバンドに入るのを断る理由なんかないだろ?でもバンドに入るうえで当初から俺の頭の中で、バンドのオリジナルのアイデアを生かしたいと思っていたんだ。俺はRUDIMENTARY PENIのブリンコや、CRASSのペニー・リンボーや、AMEBIXのスティグス、ANTISECTなどが作る詞が好きだった。サウンドはどんどん変化してメタル寄りになっていったけど、俺はバンドの中で、本来持つハードコアでありアナーコな倫理観を維持して行くことが何より重要だと考えていた。当時最も影響を受けたヴォーカルはDISCHARGEのキャル、GのS、CRUCIFIXのソチラ、そしてANTISECTのピートだった。あとCHAOS UKとのSPLITサイドのENTのヴォーカルは本当に画期的で、初めて聴いた時はマジで震えたね!

ミック:ディグは、ジャスティンとニックが辞めて直ぐに俺に連絡してきたんだ。87年の3月頃だったな、はやくバンドを立て直して欲しいとね。俺がNAPALM DEATHを続けたい事を知って、レコーデイングしたままリリースされなかった音源を手に入れるチャンスだと思ったんだろ。前回と同様にレコーディングは徹夜さ。RITCH BITCHの一番安いレコーディング・プランだったから一日目に録って、二日目にミックスなんてわけにはいかなかったのさ!今回もマイク・アイボリーがやってくれた。彼は低予算でもそこそこの音源にしてくれるのを分かってたからね。俺はギターを弾く事なんてできなかったから、6弦と5弦以外を外してこの2弦だけで曲を作ったのさ。『SCUM』のB面のほとんどはこのやり方で作った曲さ。ビルとは二回ほどスタジオで合わせて完了。リーはレコーディングの前日までまだ歌詞を覚えるのと格闘してたけど、一晩で仕上げたよ。出来上がった音源は、スネアとキックの音が全体の音の中に埋もれてたから一度ミックスし直したね。ディグが金をかけたくないという理由だけで、朝の4時から8時までの時間でやらなきゃならなかったのさ!

ジム:レコーディングの前に全員で練習したのはたったの一回だけで、それも3時間程度だ。レコードのジャケの裏側の写真は、FLICKスタジオが無くなる日の夜で、店の外に放置されていたFORDのバンで撮って貰ったものなんだよね。レコーディングしたテープを受け取った翌日は、良くも悪くも人生で忘れられない日となったよ。詞は俺が書いたものだから、リーには良く分からなかっただろうし、同様にまだよく分かっていない曲を歌いきってる事事体に驚いたよ。自信があってやれた訳じゃないだろうから余計にね。その後ジョン・ピールは何度もこのレコードを流してくれたんだ。このジャンルのレコードとしては、イギリスのメジャーなラジオで普通に流れされた最初のレコードなのは間違いなかったし、マイルストーンと見なすのは違うかもしれないが、少なくとも音楽的な面で他の多くのバンドが続いていく形となったはずだ。『SCUM』のB面の殆どの曲は、REPULSIONの86年のデモのリフをあからさまにパクッたもので、それをミックが組み立て直しただけのものなんだ。俺が作った数少ない曲はDISCHARGEっぽいもので、ビルも似た考えを持ってたみたいでそんな感じの曲を1,2曲作っていた。この音源を"重要作"と思っている人がいるのであれば別にそれはそれで構わないけど、他にもっと重要なものがあるのになと俺は思うね。もしA面が単独の作品としてリリースされていたのなら、それは絶賛されるべきだと思うよ。

ミック:このレコードは同じエンジニア、同じスタジオ、同じ機材なのに、ビルのダウン・チューニングによって重く汚い音になり、ジムの極限まで歪ませたベースのお蔭で、汚ったない地を這うような音になった。かと言ってA面は、洗練されているとかじゃなくて、クリーンなトーンで、ヘビーさはそのままに、かなりまとまったサウンドになっているんだ。このバンドが持つパンクのエネルギーがかなり伝わってくる。そりゃメトロノームを使ったら滅茶苦茶な所もあるさ、今と違ってPro-Toolsなんてもんは無い時代だ。バンドがいっせいのせで出した音だ。だから目をつぶってたってできたのさ!皆バラバラの場所に住んでいたから練習なんかろくにできなくても、このタイトさは散々ライブをやったお蔭で得たものなんだよ。あの頃は20バンド出て1.5ポンド貰えるか貰えないかくらいだった。中でも、SKUM DRIBBLURZZZのティムは、自分達が出れる枠が貰える事を願ってギターとアンプとペダルを台車に積んでいつも来ていた。ドラマーと二人だけでね。彼はいつも「5分だけやってもいいかな?」と言っては現れたんだ。奴等は最高だぜ!やる気に満ち溢れた素晴らしい奴等だったよ。俺が最後にMERMAIDに顔を出したのは87年の初めで、金を貰ったのに音源を渡さななかったにも関わらずダズは入口で受付をやっているだけで何も言ってこなかったよ。その後俺達は二度とMERMAIDで演奏する事はなかったけどね。

リー:RIPCORDとの最初のヨーロッパ・ツアーはなかなかの物だったよ。怖いもの知らずのガキ共をバンに詰め込んでヨーロッパを周ったんだから。特にRIPCORDが一緒に連れてきたエディーが最高だったね!ツアー中のメシと言えば、怪しげなスーパーで買った冷たいレンズ豆を食いながら、尋常じゃない量のビールを飲むのがお決まりさ。FEAR OF GODと一緒だったスイスはまさに天国さ!デイヴはヴィーガンだったから、高級な豆腐や豆類を食わせてくれたんだ。チューリッヒではCELTIC FROSTとマーティンにも会えてこれまた最高だったよ。SACRILEGEのトニーがツアー・ドライバーをしてくれたんだけど、途中事故も起こしたっけ。寝れる場所があれば何処でも寝たよ。汚ったねえスクワットでも、おんぼろ小屋でも便所ですらもね。お蔭で酷い疥癬にかかって帰って来たよ。でもツアー中ジムとミックの間に問題が起きてしまい、イギリスに戻るとジムはバンドを辞めてしまったんだ。ジムは俺が尊敬していた人物であり、素晴らしい詞を書く人間だったからこればっかりは動揺したよ。彼がいなくなってしまった事で、俺がその立場に代わる事に対して確かに孤独を感じていたよ。

ジム:このツアーで他の国に訪れる事が出来たのは本当に良かった。俺は70年代後半に行った学校の修学旅行以外で、イギリスの外に出た事なんてなかったから、まるで仲間と過ごす休暇みたいだったよ。食事からオーディエンスの反応まで、イギリスで味わった事のないもだった。しかしながらこの素晴らしい経験も一個人の深刻な物事の捉え方によって失ってしまった。それは仲間意識や目的意識があるエゴによって取って代わってしまったからだ。実際俺は雲隠れしてしまったと言っていいだろう。でもリーやビル、そしてジャスティンやニックを恨んだことなど一度も無かった。人生はあまりにも短い。学んだ事を胸に刻み、前に進もうではないか。ニック以外他のメンバーとは何年も会ってないが彼等の幸せは常に願っているよ。

リー:実際にMAIDA VALEスタジオに行って、セッション出来た事が俺にとって全てのハイライトだっかかもしれないね。11歳かそこらでピール・セッションを聴き始めて育った俺が、バンドで認められて参加出来たんだもん最高でしかないよな!

ミック:まずBBCのジョン・ウォルターズから実家に電話があって、折り返し電話が来ると親に言われたんだ。そしたら再び電話をかけてきて、「ピールが君たちをセッションに呼んで欲しいと言ってるから、来てくれないか?」とね。でも俺達はジムが抜けたばかりで、そこに行く為にはバンを借りなければならないのを説明したら、経費を出してくれると言ったのさ。更に俺達は楽器以外の機材を持ってないと伝えたら、BBCが機材をレンタルしてる人間までも紹介してくれたんだ。そこはMAIDA VALEスタジオからそれほど遠くない場所だったから、日曜日の朝一番に機材を受け取りに行ったよ。セッションは午前中から始まって、18時半か19時まで続いて、緊張はしなかったけど大興奮さ!本当に素晴らしい経験で、全てが目からウロコだったよ。これまで使った事のあるスタジオとは違って、大きな部屋に一人一人パーテーションが立ててあったんだ。セッティングを済ませるとプロデューサーのデイルから曲名やら色々聞かれて何曲やるんだと聞いてきたから12曲と伝えたんだ。そしたら「おいおい、12曲もやる時間ないんですけど、、、ピール・セッションって知ってますよね?」と。「知ってるよ!20分を4回に分けてやるんだろ?」とね。「なら12曲もやる時間ないの分かるよね?」と。「だから12曲で 4分なんだって。」と伝えると「はぁぁぁ???」とね(笑)「あんたには理解できないかも知れないけど、一回につき3曲でトータルで4分から4分半にしたいって言ってんの。」それでもでデイルは理解してくれなかったのさ!らちが明かないから1曲目を始めたんだ、そしたら途中で「オイっ!ストップ、ストップ!ちょっ待てよ!速過ぎてドラムが合ってないだろ!」と。これは短い曲で、ブラストビートという超高速のビートで演ってるんだと説明したけど、奴はそれどころじゃなかったよ(笑)奴は我に返って、エンジニアと一緒にミキシング・ルームに戻って少し卓をいじってから「じゃあ、もうワンテイクね。」と言ってもうスタジオには戻ってこなかったよ。多分さっさと終わらせて俺達を追い払いたかったんだろうよ!楽器隊を録り終えて、次はヴォーカルを録ったんだけど、リーと俺の歌でまた同じ事の繰り返しさ(笑) 隣りのスタジオではDANIELLE DAXがセッションをしていたんだけど、そっちから戻ってきたデイルはもうこの現状が笑えてきたみたいで、ようやく少しだけ笑顔を見せてくれたよ(笑)再びヴォーカル録りを始め、気付けばミキシング・ルームから6、7人の関係者が怖いもの見たさでスタジオを覗きこんでいたよ!1曲目を録り終えてミキシング・ルームに行くとDANIELLE DAXも居たんだ。彼女は俺とリーに「そんな歌い方していると喉を潰しちゃうわよ!」だとさ!そりゃそうだ(笑)こうして俺達の一回目のセッションは、NAPALM DEATH史上最も凶暴な音として残された。俺は79年からピールと共に育ってきたし、与えてくれたこのチャンスに全力を尽くしたよ。スタジオの音響効果は特に素晴らしく、自然とリヴァーヴがかかっていたよ。

リー:セカンド・アルバムに関しては、勿論誇りには思ってるよ。こんな言い方でいいのかは分からないけど(笑)前にも言ったけど、ジムを失っただけでなく、それ以上に周りの期待に応えきゃというプレッシャーがあったんだ。あの当時俺が抱えていたほとんどの問題は、自分自身の模索と、周りの状況を含めた他の人間との関わり方をどうするかだった。だから他の人間を非難するより、自分自身の欠点や固定観念にまず目を向けなければならないと感じていたんだ。勿論、何の罪もない人や生き物を苦しめる組織や企業を攻撃することだって出来たさ。でもまぁ、ほとんどの人間は歌詞の内容なんて気にもしていない事も分かっていたからね。兎に角このアルバムは『SCUM』よりもずっとダイレクトでブルータルな物になった。DISCHARGEのキラーなリフと、アンダーグランドなメタルという二つのスタイルから受けた影響をガッチリ噛み合わせているんだ。

NAPALM DEATHのメンバーとして最後となった日本ツアーは俺にとって甘酸っぱい思い出だよ。バンドの誰もが日本で演ってみたい、行ってみたいと思っていたので、S.O.B.とお互いの国を一緒に周るツアーを企画したんだ。俺達が一緒にイギリスやヨーロッパを回り、その代わりに日本を周る為のツアーを企画してくれた。ライヴはどれも素晴らしく、OUTOからLIP CREAM、更にGAUZEからDEATH SIDEまで一緒に演れてたのは本当に最高だったよ。更に、友達の家に泊めてもらったり、S.O.B.と一緒にバンで移動したりと、実際にこの目で日本を見ることができたのが良かった。だからCATHEDRALで日本に行った時はちょっぴり贅沢な感じがしたよ(笑)でもこのツアーで、俺とミックの間には大きな溝が出来てしまったのも確かだった。それはミックとシェーンが俺が信用できないと思えるようなマネージャーと一緒にやっていきたいと思っていたからだ。常にDIYな考えを持ち続けた俺にはバンドの中で勝ち目は無く、もはや上手くいかない所まで来てしまった。俺はこのツアーを手配するのに文字通り数ヶ月を費やし、電話やファックスなど莫大な費用をかけたにも関わらず、結局このツアーは初めて日本を周ったレーベル所属バンドとして、EARACHEの日本での地位を確立する為に行われたものとなってしまったんだ。

ツアーの直前には、メンバー全員に印税分の2千ポンドかそれ位の小切手が届いたんだけど、慌ただしさもあって俺は銀行に預ける暇がなかったんだ。まぁ帰ってから預ければいいかな程度に思っていたんだ。このツアーは飛行機代なんかで多少の赤字は出てしまったものの、それ以外は大成功だったんだ。それなのに他のメンバーとディグの間でその損失をカバーする為に俺の小切手を無しにしたと、一緒に同行していたEARACHEのスタッフだったマーティンから伝えられたんだよ。しかもまだツアーの途中にだぜ!俺の同意もなしに、しかもメンバーですら無い奴から言われるなんて。。。皆で一緒にやってきたんじゃないのかよ!!!奴等は金と自分の事しか考えてないのがよぉぉぉぉぉく分かったよ。ジョニー・ロットンの言葉を借りるなら、89年の東京での最後のライブで俺の口から出た言葉は、「騙された気分はどうだい?」と、「ハッキリと出口が見えたわ!」だった。まあ、誰にも伝わらなかったけど!

帰国後、俺はメンバーに「もうこのバンドのメンバーでいる気はない」と伝えたよ。その直後にビルもCARCASSに専念する為にバンドを離れたけどね。確かこの時にピールからREADING FESTIVALへの出演の誘いもあったと思うが、それどころじゃなかったよ。今思えばあの時はまだ世間知らずのガキだったさ。でも俺はその時の気持ちをここで伝えたかったんだ。今でもシェーンとビルの二人とは仲良く、よく会ったりしているよ。

ミック:まぁ、リーとビルがいなくなったのは少しはショックだったさ。でも俺とシェーンはまだ終わっちゃいないと確信していたんだ。そこでイカレタ考えを思いついたんだよ。ピートとデビッドがMORBID ANGELに加入した事で活動を停止しているTERRORIZERから何もやっていないジェシーを誘うのはどうかとね。早速奴に電話してみたら是非やりたいと言ってくれたんだ。ちょっとした手違いがあって、一度目は送還させられてしまったものの、二回目は書類もばっちりで無事入国できたってわけさ!バーニーは知り合いで、アンダーグラウンド・メタルに夢中だったから、バンドの方向性と一致していたし、なんせ最高のガテラル・ヴォイスを持っていたから参加して貰った。ミッチはヴェガスに行った時に知り合った友人で、DEFECATIONって二人プロジェクトを一緒にやった仲だった。他のメンバーはセカンド・ギタリスを入れる事に納得してなかったけど、試したら上手くいったさ。奴はNAPALM DEATHの大ファンで、昔の曲をほとんど覚えていたんだ。俺もRIGHTEOUS PIGSが大好きだったしね。山ほどのギグと山ほどのツアーをこなし、バンドはどんどん大きくなっていったよ。そのお蔭で昔からのファンは失っても、新たなファンを沢山得たのさ。サウンドは徐々に進化していったけど、パンクの要素は常に残っていたし、2,30秒の曲を作り続ける事は無くなっても、もっと面白く、もっと挑戦してバンドを前進させたかったんだ。だから一夜にして全てが変わったわけじゃないんだ。

でも『HARMONY CORRUPTION』はマジでクソ。プロダクションが1ミリも曲を評価してないのが勿体なさすぎなんだよ。これはとんでもない大きな間違えだと諸手を挙げて訴えるべきだ。でも実はこんな経緯があったのも確かだ。俺達は【最も】尊敬していたスコット・バーンズにレコーディングして貰う為にフロリダを訪れた。奴が手掛けたOBITUARYの一枚目やDEATHの『Leprosy』は最高だったからね。俺達はこのアルバムを共同でプロデュースしたかったんだけど、奴には伝わって無くて全て奴が自分で手掛けるものだと思ってたんだ。結局俺が、奴のお気に召さないものとなっちまったのさ。奴は「お前のドラムが全然ダメ、シンバルもズレまくってる。」と言い放ったから「お前こそクソエンジニアじゃねーか!オマエのクソみたいな機材が悪いんだろうが!そっちをちゃんと直せクソ野郎が!」とね。アメリカで"cunt"を使っちゃマズいなんて知らなかったからさ(笑)奴は途中まで録音したテープをまとめて出てっちまったさ!全てが白けちまったよ。山ほど反感を買っている時点でもう一緒になんか出来る状態じゃなかったよ。バーニー以外のメンバーは一晩中飲み歩いてたお蔭で、ミックス中に寝ちまってたさ。で、トム・モリスからスコットがもうセッションを続ける気がないから二、三日冷静になってみてはどうかと提案してきたよ。ディグは直ぐに電話を掛けて来て「これには大金がかかってるんだから、とにかくマスタリングまで完成させてくれ。」とね。ディグは相当焦ってたよ。そりゃ大金をつぎ込んでいたからね。だからそれに従うしかなかったさ。

その後はツアーもやったけど、もう疲れたよ。楽しくも何ともなくなっちまったのさ。誰一人友達も居なくなった。ジェスとミッチとシェーンは元々飲み仲間ってのもあったけど、それだけの為の集まりにしか見えなくなったよ。だからライブをやっても酔っぱらって女を見つけに行くだけ。もう音楽はどうでもいいのか?でも恨んだりはしてないさ。奴等が元々そうなりたかっただけだろうし、そんなのバンドをやっていればある事だ。だから俺は最後に『MASS APPEAL MADNESS』をレコーディングして辞めたよ。

リー:俺にとってグラインドコアとは、境界線を打ち破り、自らの考えを制限しない物だった。でも残念な事に、パンク・ロックと同じ事がグラインドコアにも起こったんだと思う。偉大なるオリジナル・バンドが、10億ものバンドにパクられ、その結果彼等は俺達のスタイルをコピーしただけの、オリジナルとも呼べない、もはやエクストリームですら無くなってしまったんだ。幅広く考えれば、NAPALM DEATHが最初に認められた事で、音楽シーンに多大な影響を与えた事は確かだと思う。それ以来、エクストリーム・ミュージックは様々な形で一般的に認知され、更なる挑戦を促した物になるからね。それが皆の記憶に残ってるかって?そんなの分かるかよ!願わくば本気でやっていた一人の人間としてそうなっていて欲しいよ。

NMEなんかの雑誌に取り上げられ、"BRITCORE"などという言葉が飛び交う前は、本当に素晴らしく、エキサイティングなシーンだったんだ。俺の知る限り、それは音楽以上のものであり、情熱を持って変化を求めていた。確かに俺は馬鹿正直だし、当時の誰かにそこを突っ込まれたら頭を抱えてしまうだろうね(笑)でも残念ながら、正しい意図を持って始まったシーンやムーブメントは、成功や嫉妬、そしてエゴの枠に囚われて台無しになってしまったんだから。でもひとつだけ確かなことは、俺はその場所に居れた事を誇りに思っているって事だ。

対訳:BREAK THE CONNECTION RECORDSの中の人